2018.3/25

『ヨハネが“殊の外”伝えたかったイエスさまの復活』

               ヨハネの福音書20章11~20節

 先週お伝えしたように、ヨハネの福音書は、マタイやマルコやルカの

福音書が書かれて、30年ほど経ちまして記されました。

 そのヨハネの福音書には、十字架に関する記事と同様に、イエスさま

の復活に関しましても独自の記録が見られるのであります。

 その内容を詳細に読み取りますと、やはり、ヨハネが“殊の外”伝えた

かった事柄が浮かび上がって来るのでございます。

 

❏その一つが、イエスさまの復活は『人々の心を喜びで大いに満たし

た』という事であります

 復活されたイエスさまに会う前には、マクダラのマリヤは、ただ泣く

ばかりでした。自分を罪深い生活と悪霊から救い出して下さった御方。

それがゆえ、この方こそ救い主だと信じ、お慕いし、愛し、お仕えして

来た御方。

 その方が無残な死を遂げてしまわれた。何ゆえか? 訳も分からず、

ただ泣くしかない。もしイエスさまが死なれた“だけ”でしたら、マリヤ

の心はズタズタのまま、その癒えない悲しみの中で生涯を送るしかあり

ませんでした。

 ところが、復活なさったイエスさまが彼女の前に現われ、懐かしい声

で「マリヤ」と呼びかけて下さった。これにはマリヤ、どんなに喜んだ

でしょうか。まさに歓喜であったに違いない。

 

 皆さん。これは私たちにも起こり得る事です。あまりの悲しい出来事

に、心がボロボロになって、イエスさまを見失ってしまう。ところが、

そんな中、イエスさまが“御声”をかけて下さり、慰めを得、心癒され、

元気づく。何ゆえでしょうか? 事実、イエスさまが復活されて、今も

生きておられ、私たちを愛して下さっているがゆえでございます。

 

 さて次に、イエスさまの弟子たちは、どうでありましたでしょうか?

復活されたイエスさまに会う前、彼らは絶望のうちに引きこもり、身を

隠すばかりでした。

 彼らは、イエスさまが約束のメシヤであられ、イスラエルの国を復興し、ユダヤ人の王として世界を統治される御方であられると確信をし、

自分たちの命・人生を賭けて、イエスさまに従いきました。

 ところが、その御方が理不尽にも、そして、見方によれば、無力にも

亡くなってしまわれた。その彼らのショック・衝撃は、どんなに大きく

ありましたでしょうか。もしイエスさまが“死んで終わり”でありました

ら、彼らは失意の中、空しく、心が『もぬけの殻』のような生涯を送る

しかなかったでありましょう。

 

 ですが、復活されたイエスさまが弟子たちに御自身を現されました。

これに対して20節には「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。

原文では、この「喜んだ」という所に大変強い強調がありまして、彼ら

は、感動歓喜に満ち溢れた分けでした。

 

 皆さん。これも、私たちにとりましても同じであります。すなわち、

イエスさまが、事実、復活され、今も生きておられる“ゆえにこそ”、

「インマニュエル」(神、我らと共に在り)と確信し、喜ぶ事ができる

分けです。

 

❏もう一つ、ヨハネが“殊の外”伝えたかった事柄は『私たちの信仰告白

の“基”としてのイエスさまの復活』です。ヨハネ20:24~31

 この28節の「私の主。私の神」という告白ですが、何でもかんでも

「神さま」とする日本人ではなくて、偶像崇拝を忌み嫌い、唯一真の神

さまだけを礼拝する“ユダヤ人”のトマスの告白である事に大きな意義が

あります。

 これは言い方を変えますと、“ユダヤ人”のトマスにとりまして、“人”

であられたイエスさまを「私の主。私の神」と信じる決定的な証拠は、

イエスさまの復活にあった分けでした。

 実際、私たちクリスチャンの信仰の総ての告白の基は、イエスさまの

復活にあります。

 

 例えば、私たちがイエスさまを「神の子」であられると信じる信仰が

そうであります。すなわち、神さまとイエスさまの間柄は『唯一無比』

の父と子であって、イエスさまは『神のひとり子』であられると信じて

いる分けです。

 そして、イエスさまを「キリスト」であると信じる信仰、すなわち、

イエスさまを約束のメシヤ・救い主であられると、復活を、そのための

決定的な証拠として私たちは信じているのです。

 そして、さらに、復活の事実のゆえに、イエスさまが「私の主。私の

神」であられると、喜びと賛美と揺るがない確信をもって私たちは信仰

告白するのでございます。

 

❏さて、もう一つ、ヨハネが“殊の外”伝えたかった事柄は、『自分たち

の生きる目的を決定づけた、イエスさまの復活』でありました。ヨハネ

21:15~19

 もしもイエスさまが“死んだまま”でありましたら、ペテロたち、それ

でもイエスさまの弟子として生涯を全うする事を志し、その事を実際に

実行し、殉教するまでになれたでしょうか?

 確かに、語られた教えに感銘し、師の亡き後、弟子たちがその教えに

生き、布教するという事は歴史上ありました。

 けれども、イエスさまの場合どうかと言うと、イエスさまが語られた

おことばが言わば「人間離れ」した事ばかりでありましたので、例えば

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでもいきるのです」とか、「わたしを信じる者は、永遠のいのちを持つ」とか、そのようにおっしゃったイエスさまが、もしも復活されなかった

のであれば、イエスさまは「はったり」の「大嘘つき」となってしまい

ます。

 そんな人物だと“分かった上で”、ペテロたち、今は亡きイエスさまの

弟子として自分の生涯を賭け、その教えに生き、命懸けで、たとえ殉教

しようとも、「イエスさまは救い主だ」と人々に伝えた、なんて事は、有り得ない事でありましょう。

 

 ところが、事実、イエスさまが本当に復活されたからこそ、そして、

復活された御方をペテロたちが目の当たりにし、その御声を自分たちの

耳で聴き、復活された“御からだ”に自分たちで触れる事が出来た。

 そして、ペテロを筆頭に他の弟子たちも、復活されたイエスさまから

直に、個人的に召しの言葉を戴き、使命を託された。

 それがもう疑う余地のない事実であればこそ、その後のペテロたちの

『生きる目的』、その後の生きざまが決定された分けでした。

 その後、彼らはどう生きましたか? 一生涯、イエスさまを信頼し、

愛し、イエスさまのために生きました。何があろうとも、望みを抱いて

喜び、患難に耐え、自分に与えられた使命を果たすべく奮闘しました。

 その彼らの生きる力、熱く燃える使命感、忠誠心、その始まり、その

起源は何でありましょうか? 復活の主イエスさま!

 

 皆さん。この御方イエスさまは、復活され、今も生きていらっしゃい

ます。であればこそ、今の私たちそれぞれに対しても、直に、個人的に

係わって下さる事がイエスさまにはおできになるのです。

 私たちの人生を幸福なものとし、充実したものとして下さる御方は、

復活されたイエスさまでございます。

 

 皆さん。このイースターの良き日に、復活された主イエスさまを喜び

賛美いたしましょう。この御方に対する信頼と愛と従順を新たにいたし

ましょう。

 

主イエスさま、あなたに尋ね、命じられます。

「あなたは、わたしを愛するか」

「わたしに従いなさい」と。

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