2018/4/29礼拝

『信頼に必ずや応えてくださる神』

         詩篇146、147篇

 

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神に望みを置く者は。」

                          146:5

 

 この「ヤコブの神を助けとし、その神に望みを置く者」とは、『神

に信頼して止まない者』です。そのような人が「幸い」であるのは、

その信頼に神さま御自身が必ずやお応え下さるからです。

 

 「しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを

 与える方。主は捕らわれ人を解放される。」146:7

 

 この“みことば”にありますように、「しいたげ」に遭いながらも、

神さまにすがり、信頼する人のために必ずや正しい裁きを行なって

下さいます。

 やんごとなき事情で「飢え」し時も、神さまに信頼し祈り求める人

に、神さまは必ずや食物をお与え下さいます。

 そして、「捕らわれ」の身に遭いしも、神さまに信頼して止まない

人を必ずや神さまは解放して下さるのです。

 

 実際、この7節にある事は、イスラエルの実体験でした。彼らは、

国が滅ぼされ、バビロン捕囚の憂き目に遭い、異国の地で虐げられる

中、神さまに叫び求めました。それに神さまはお応え下さったのです。

その実体験の結論が5節である分けです。

 

「主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は

 正しい者を愛し、主は在留異国人を守り、みなしごとやもめを

 ささえられる。」146:8~9

 

 もしや「不幸」に見舞われても、その中で、ひたすら神さまに信頼

し続ける人に、神さまはその不幸の只中、慰めを与えて、不幸を乗り

越えさせて下さいます。

 あるいは、「挫折」を味わう中、目を上げて神さまの御名を呼び、

神さまに信頼するのを止めずにいる人を、挫折から立ち上がらせて

下さいます。

 あるいは、弱き立場に身を置きながらも、その中で神さまに寄り

すがり、その信頼を深める人を、神さまはおかばいになり、守り、

支えて下さるのです。

 

 「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」

147:11

 

 この「主を恐れる」とは、『主を疑わず、不信仰にならないで、主

に信頼する事を止めない事』です。

 主の「御恵みを待ち望む」というのは、『主は、私のような者をも

顧みて下さり、ご自身の“みことば”のとおりの事を行なって下さると

信じ喜び待つ』という事です。

 そのように「主を恐れ」主の「御恵みを待ち望む」人を、「主は

好まれる」。すなわち、その人を喜び、好いて下さり、愛して、必ず

や恵みをもってお応え下さる分けです。

 

 その実例の一人が、イエスさまと一緒に十字架につけられた、あの

強盗でありましょう。

 

 彼は、共に十字架の苦しみに遭ったイエスさまの言動を見聞きし、

心あらためられ、イエスさまに願いました。「イエスさま。あなたの

御国の位にお着きになる時には、私を思い出して下さい」と。

 そのようにして彼は、主イエスさまの御恵みを待ち望んだ分けで

した。これに対してイエスさまは、「まことに、あなたに告げます。

あなたは“きょう”わたしと共にパラダイスにいます」とおっしゃいま

した。

 すなわち、御恵みを待ち望んだ彼をイエスさまは、殊の外喜ばれ、

彼を好いて下さり、愛して下さり、彼の全てを赦し、彼をパラダイス

に御自身と一緒に迎えて下さった分けでした。

 

 そのように、「私のような者には、神さま、~してくれるはずも

ない」ではなくて、「私のような者にも、神さまは、~して下さる」

であって、御恵みを待ち望む人を、「主は好まれる」のです。

 

 もう一人の実例は、娘の癒しを願い止まなかった、あの「カナン人

の母親」でありましょう。

 

 彼女はイエスさまから素っ気ない態度を取られ、ついには「子ども

たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない事です」と

まで言われても、なお退かずに、こう言いました。「主よ。そのとおり

です。ただ、その小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずは戴きます」

と。

 これは、まさに「御恵みを待ち望む」信仰の言葉です。イエスさま

は、これを殊の外喜ばれ、母親の信仰を讃え、その願いを叶えて下さい

ました。

 皆さん。「私の祈りに応えて下さらない」と怒ったり、嘆いたり、

諦めそうになっていませんか? もうしばらく祈る事を止めないで、

御恵みを待ち望みましょう! 主は、その信仰こそを殊の外喜ばれ、

ついにはお応え下さるのです。

 

 さて、今日注目の147篇には、御恵みの“みことば”が散りばめられています。

 

 「主は心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む」3節

 

 この「心の打ち砕かれた者」とは、例えば『罪の責めに苦しむ人』。

あるいは、いろんな事があって『疲れ果ててしまった人』。あるいは、

悲しみの中、『成す力も術も失くした人』。そんな人たちが主に呼び

求めるならば、主は応えて下さる。その人をいやし、その人の傷を

包んで下さるのです。何と素晴らしい恵みでありましょうか!

 

 「主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」4節

 

 これは、文字どおり、星々、一つ一つに名をつけるという分けでは

なく、宇宙に拡がる無数の星々、一つ一つを神さまが“分かって”おら

れるという分けです。この“みことば”の深意は何でありましょうか?

それは、私たち一人一人を主は全て分かっておられる。「個別」で、

私たちの祈りに耳を傾け、お応え下さるという事です。

 

 「獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方」9節

 

皆さん。これを読んで嬉しく思いませんか。

 

 神さまは、このカラスの子以上に、私たち一人一人を愛し、慈しんで

おられるのです。

 どれほどにでしょうか? 私たち一人一人のためにご自分の独り子を

身代わりとし、宥めの供え物とされるほどにです。

 皆さん。私たちが主を恐れ、御恵みを待ち望むのは何ゆえでしょうか? それは、この“みことば”にあるとおりです。

 

 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に

 渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、

 私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 

 私たちが信頼しています神さまは、「鳴く烏の子に食物を与える方」

いや、それよりははるかに超えて、「私たちすべてのために、ご自分の

御子をさえ惜しまずに死に渡された方」であられます。

 その御方がです。「どうして、御子と一緒に総てのものを私たちに

恵んでくださらない」分けがない。

 であればこそ、私たちは、その、あまりの恵みの大きさのゆえに、

「主を恐れる」であります。であればこそ、「主の御恵みを待ち望み」

全き信頼をもって、神さまの御恵みの御心のままの応えを“当てにして”

喜び待ち望むのです。

 

 だれを主は好まれるでしょうか? 主を恐れ、主の御恵みを待ち望む

人々です。

 

 このメッセージを打ち終わり、ふっと窓の外に目を遣ると、そこに、

主の御恵みを証しする、小さな証しびとがいました。電線に留まった

スズメです。そのスズメが証ししています。「神さまは、鳴く私に食物

をお与え下さっています」と。

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