2020年5月24日礼拝説教

聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章1~2節、2章6節~7節

 

 最初に読みました“みことば”にありますように、この手紙は、

「コロサイ」という町に住む「聖徒たち」に書き送られた手紙で

ございます。

 

この コロサイの「聖徒たちの集い」である“教会”の 牧師の一人

に、「エパフラス」という人がいました。

 彼は、詳しい経緯は分かりませんが、パウロがエペソで宣教活動

していた時期に救われて、その後、コロサイ教会の牧師となりま

した。

 その エパフラスの牧会のもと、危機的な状況が発生いたしま

した。それは、異なった教えを説く輩が 教会に侵入し、悪影響

をもたらしている という事でした。

 

 この事態に対して、エパフラスはパウロの指導・助言を願う

べく、当時、ローマで軟禁状態にあったパウロを訪ねた分けで

した。

 そして、その要請を受け、パウロが、聖霊に拠る 特別な働きを

得て書き送り、聖書の一部となりましたのが、コロサイ人への手紙

でございます。

 であれば、このコロサイ人への手紙の趣旨は 何でありましょう

か? それは、『純真な福音への 信仰に基づく歩み』であります。

 

 現在で言いますと、コロサイは、トルコ国内の 西寄りの 内陸部

ありました。当時、そこは、アジアとローマ帝国を結ぶ 東西交通

の要所でございました。

 それがゆえ、コロサイでは、ギリシャ・ローマの哲学 思想と、

アジアの宗教 思想が合流し、“ごちゃまぜの教え”が生み出されて

いました。

 これに加えて、コロサイには ユダヤ人の大勢の居住者がいて、

彼らは、ヘレニズム文化に影響されながらも、ユダヤ教の戒律・

伝統重んじていました。

 

 皆さん。そういう背景 土壌にある人たちが、イエスさまを信じ

して、クリスチャンとなり、コロサイ教会のメンバーとなりま

した。

 ですが、その彼らとは“別に”、イエスさまに対する信仰が曖昧

で、未だ救われずして、教会の集いに「入って来た」人たちも 居た

ようでした。

 さらには、いわゆる「偽教師」たちが、教会の集いの内外で人々

に、近づき 自分の教えを“卓越したもの”として 吹聴していたの

でございました。

 

 皆さん。その悪影響が広がり 深まりつつあった分けです。まず

は、信仰が曖昧で、未だ救われずにいた人たちに。次に、本当の

クリスチャンたちにも。

 ちなみに、この偽教師たちが布教した異なった教えに関しては、

後々に詳しくお伝えする事にいたします。

 ともかくも、この深刻な事態に危機感を抱いたエパフラスは、

先ほど言いましたように、パウロに指導・助言を求めたのでござい

ました。

 

 その応えとして、聖霊さまがパウロをとおして書き送って

下さった、コロサイ人への手紙の 趣旨が、『純真な福音への 信仰

に基づく歩み』でした。そして、私たちは、この“みことば”に

拠り、まさに その恵みと指針を学ぶ事が出来るのであります。

 

 もう一度、コロサイ人への手紙の 2章6節と7節を御覧下さい。

この“みことば”は、コロサイ人への手紙の テーマ聖句でござい

ます。

 

❏ここに、「あなたがたは、このように 主キリスト・イエスを受け入れた」とあります

 まず一つ、注目は「このように」という事。すなわち、この手紙

最初から、2章の5節までの間に語られている その“とおり”の

御方として受け入れている という分けです。

 どなたをでしょうか? 「主キリスト・イエスを」でございます。

この「主」というのは『神であられる御方』を意味し「キリスト」

は『約束の救い主』を意味し、「イエス」とは『罪からの救い』を

意味いたします。

 そんな方を「受け入れた」。この「受け入れる」というのは、

『ごく身近に迎え入れる』とか、『しっかりと受け留める』とか、

そして、『信じ 従い行くのを 決意する』というような意味合いが

ございます。

 

 皆さん。そのように「純真な福音」とは、この“みことば”が

伝える“とおりの”方 主キリスト・イエスさまご自身であられる

分けです。そして、その「純真な福音への信仰」とは、その方

主キリスト・イエスさまを ごく身近に迎え入れる事、そして、

しっかりと受け留める事、そして、信じ 従い行くのを決意する事

であります。

 

❏皆さん。私たち、この「純真な福音への信仰」があってこそ、始める事が出来ますのが、『キリストにあって歩み行く』、その幸いな人生であります

 私たちは、“キリストにあって”歩み行く。それは言い換えます

と、キリストさまの御支配の中、歩み行く分けです。

 この「支配」の漢字は「支援」の“支”と「配慮」の“配”です

が、そこから どんなイメージが湧くでしょう? 良き羊飼いの許に

ある幸いな羊でありましょう。

 すなわち、「キリストにあって歩み行く」と言いますのは、

“良き羊飼い”であられるイエスさまの支援と配慮を得ながら

の歩みである分けです。

 

 そして、「歩み」でありますゆえ、日ごとの事、日常の生活の

事、一歩一歩の事であります。イエスさまは、日ごとの 日常生活

一つ一つの場面で、“良き”羊飼いとして、私たちを支援し、

ご配慮下さるのです。皆さん。私たち、この御恵みに、イエスさま

に対する信仰と従順をもって応えましょう!

 

 そして、「歩み“行く”」分けですから、その道中、私たちは、

いろいろな事態に直面するでありましょう。私たちは、その都度

自分のための羊飼いであられるイエスさまに面と向かい、祈る事

ができる。そして、イエスさまは、それに応えて、ちょうど良い時

に、ちょうど良い御助けをお与え下さるのでございます。何と幸い

な事でしょうか!

 

❏さて、次に 7節ですが、ここに命じられていますのは、私たちと キリストさまとの強い 深い 密接な関係であります

 まず、「キリストの中に根ざし」とございます。この「根ざす」

は、完了時制でありまして、私たちとキリストさまとの 深くて強い

関係が強調されています。

 皆さん。私たちの 信仰生活に 何らかの問題が生じるのであれば、

その主な原因は、キリストさまとの結びつきが甘くなってしまった

事にありましょう。

 私たち、キリストさまの中に根を深く 広く拡げましょう!

そうしてこそ、私たち、揺るがない信仰生活を送り、上へと成長

し、伸びる事ができましょう。

 そして、さらには「建てられ」とございます。実は、原文では、

この「建てられ」にも、「キリストの中に」が結びつけられていま

して、すなわち、私たちは、キリストの中にあってこそ 建て上げ

られる分けです。

 これは、私たちが、キリストさまと交わりをし、キリストさまに

学び、キリストさまから御力を得る中で 私たちの人格が「聖く傷の

ないもの」へと 変えられ行く事を意味いたします。

 皆さん。私たちの 一度しかない人生、「何事を成し遂げるか?」

というのは、確かに重要でありましょう。けれども、それよりも

重大なのは、「どんな人格の、どんな人間となるか?」でござい

ましょう。

 

 ですから、私たち それぞれは、自分の心深くの“ありさま”

「真相」と そこから露わになった行為に注視し、悔い改めるべき

を悔い改めて、キリストの中に建て上げられる事を祈り求めま

しょう!

 

 さて、最後に、もう一つ、「教えられたとおりに信仰を堅くし、

溢れるばかり感謝しなさい」とございます。

この「信仰を堅くし」というのは、信仰が「しっかり して来る」

その成長の“過程”を表していまして、「溢れるばかりに感謝

しなさい」は、感謝を絶やさない事を意味いたします。

 皆さん。その どちらも、純真な福音への 信仰に基づいてこそ

結ぶ、麗しい実であります。要するに、単に「それを知っている」に止まらない、確かな実践があり 結ばれる実がある分けです。

 

 皆さん。私たちが目指すべきは、“実質”であり“実行”であります。そして、それを私たちに教えてくれるのが、このコロサイ人への手紙の“みことば”でございます。

 

 

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