『心責められし人の祈り』詩篇143篇
詩篇全体の中で7つが「悔い改めの詩篇」とされていますが、
その最後が今日注目の詩篇143篇です。
実際、この詩篇には、自分に敵対する人たちの仕打ちを、神の
懲らしめと受け留めて、心の責めを甚く感じ、弱り果てている、
その様子を窺い知る事が出来ます。
*1~2節
「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。
あなたの真実と義によって、私に答えてください。あなたの
しもべをさばきにかけないでください。」
ここに歌われていますのは、①自分の犯した罪のゆえに
感じている罪悪感。②自分の心の、どうにもならない汚れ・
腐敗。③それを認めつつも、神さまに赦しを願う、切実な
祈りです。
*3~4節
「敵は私のたましいを追いつめ、私のいのちを地に打ち砕き、
長く死んでいる者のように、私を暗い所に住まわせたからです。
それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちで
こわばりました。」
敵の仕打ちは大変辛くありましたが、その苦しみをとおして
心責められる事がそれよりも苦痛であり、ひどい悲しみとなり
ました。そして、この詩篇の歌い手であろうダビデの「霊」は
「衰え果て」、彼の心は「こわば」ったのでした。これは、
かなり深刻な心の病んだ症状です。
*7節
「主よ。早く私に答えてください。私の霊は滅びてしまいます。
・・・私が穴に下る者と等しくならないため。」
これは、さらに危機的です。「私の霊は滅びる」という分け
です。このままだと「穴に下る者」と「等しくなる」、すなわち、
最悪、死に至ってしまうという分けでした。
このように、心責められし中、ダビデは何を祈りましたでしょうか?
*7節
「どうか、御顔を私に隠さないでください。」
ここで彼は、今一度の罪の赦し、全ての悪からのきよめを願い、
神さまとの親しい交わりの回復を祈り求めたのでした。
*8節
「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼して
いますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましい
はあなたを仰いでいますから。」
この「朝に」という言葉には、比喩があるのではと思います。
すなわち、「夜」が象徴します『苦難』の中、夜通し、悔い改め
をし、嘆きをもって祈りをする。そして、ついには夜明けを迎える。
その“新しい朝”にこそ、神さまの“新しき恵み”が現わされ、もたら
されるという分けです。言い換えれば、赦しの恵み、きよめの恵み、
神さまとの親しい交わりが回復される恵みです。
次に、「私に行くべき道を知らせてください。私のたましいは
あなたを仰いでいますから。」という祈りですが、これはダビデ
が赦しを得、元気と勇気を戴き、立ち上がって、再び前に進んで
行こうとする、“新しい決意”の現われ、言わば“新しい旅立ち”で
あります。そのように、犯した罪のために心責められし人であり
ましても、神さまの恵みのゆえに再び新しく始めることができる
のです。ハレルヤ!
*9節
「主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身
を隠します。」
この祈りに何を見い出すでしょうか? 特に「私はあなたの中
に、身を隠します」という点に注目しましょう。
これを言い得るという事は、ダビデと神さまとの関係が、どう
なったからでしょうか? それは、“元の関係”に戻ればこそ!
すなわち、再びまた遠慮無しにダビデは、神さまを「避け所」
とし、「隠れ家」とし、「我が味方」「私の身を守る盾」とする
事が出来た分けでした。
*10節
「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ
私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな
地に私を導いてくださるように。」
この祈り、まず一つは、神の御心を弁える事を願う祈りです。
もう一つは、その御心を、どのようにして日常生活で実現して
行くべきか、その指針・指示を戴く事を願う祈りです。そして、
さらには、その教示された一つ一つのことを実行できるよう、
聖霊の御助け・御力を授与される事の願う祈りです。
私たちそれぞれが、日毎に、この10節の祈りを8節の祈り
と合わせて祈りたいと思います。
*11節
「主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、あなたの義に
よって、私のたましいを苦しみから連れ出してください。」
この祈りをダビデは、まず一つ、神さまの「御名」を拠り所
として祈りました。すなわち、その「御名」とは、『呼ばば
応えたもう』“救いの神”としての御名です。
もう一つ、ダビデは、神さまの「義」を拠り所として祈りま
した。すなわち、ご自分の約束の“みことば”を必ず守られる、
神さまの『忠義なるご性質』を拠り所として祈ったのであり
ました。
私たちも同じであって、神さまのいろいろな御名や、神さま
ご自身の御性質や、約束の“みことば”を拠り所として祈る事が
できるのです。
さて、そのようにして、ダビデは、神さまの御名前とご性質
を拠り所として祈りましたが、何を祈りましたでしょうか?
それは、「苦しみから連れ出される」事でした。これは、ただ
単に「苦難から救い出される」事ばかりではなく、苦境を耐え
忍ぶ力を賜わり、ついには、言わば、試練による『学習課程』
を無事修了できるようにとの祈りでありましょう。
もしや私たち、何事かの試練に遭います時に、ただ苦難から
救い出される事ばかりではなくて、その苦しみを耐え忍ぶ力を
戴けるよう、試練による学習課程をしっかりと学び終える事が
できるよう、お祈りしましょう!