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2018/1/28

『不正が“平然と”行なわれる中で』

                ヨハネの福音書18章28~40節

 

 この「平然と」というのは、辞書に拠りますと『良識を持っている人

なら、当然遠慮するはずの行動をあえて行いながらも、「悪い」とか、

「恥ずかしい」とか思う意識が全く見られない様子』です。

 

 今日注目の箇所に登場します人たちは、まさに、その“平然と”不正を

行なったのでありました。

 

❏まずは『祭司長・長老たち、そして、律法学者たち』

 彼らは、罪をでっち上げ、無罪なる人(イエスさま)を処罰へと追い

込み、抹殺しようとしました。

 

 ピラトが「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか」と

告発理由を問うと、彼らは「もし、この人が悪い事をしていなかった

ら、私たちは、この人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう」と

答えました。これは、原文ではもっと強い調子であって、「こやつが

悪人であればこそ、あなたにこうして引き渡すのだ」という、語気の

強い返答でした。

 これには、どうでしょう。肝心の告発理由が語られてはいません。

というのは、ピラトの法廷で審議され、判決が下されるべき“正式な”

訴状がないゆえでした。

 これを見抜いたがゆえの、ピラトのこの言葉です。「あなたがたが

この人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきをなさい」。

 これは至極尤もな意見ですが、これに対する告発者たちの言い分は、「私たちには、だれも死刑にすることも許されてはいません」という

事でありました。ここに、彼らの悪辣な思惑が噴出しているではあり

ませんか。

 すなわち、彼らには裁判の正当性など、どうでもよかった。でっち

上げた罪で異邦人の手に渡し、ともかくも「ナザレのイエス」を抹殺

しようと強情に欲した分けでした。

 

❏次に、『ピラト』

 彼は、イエスさまと身近に接し、あれこれと対話する中で、段々と

分かった事がありました。

 その始めの一つが、「この人には、法で裁かれるべき罪などない。

ましてや死刑にされるはずもない」という事。

 そして、もう一つさらに進んで、「この方は“ただの人”ではない。

確固たる意志と思想を持つ、尊敬に値する方に違いない」と。

 そして、さらに一歩進んで、「ひょっとするとこの方にこそ、真理

があり、その真理を伺う事ができるのでは?」と。

 

 それゆえ彼は、心で「真理なるものを聞いてみたい」と思いました

が、その次の瞬間、皮肉交じりの、彼の罪の性質が働きました。彼の

発した「真理とは何ですか」という問いは、原文の語順のとおりに、

そして、意訳しますと、「何が『真理なるもの』だと言うのか」と

なり、そこには嘲笑の含みを持つ皮肉が見られるのです。

 目の前に真理なる御方がおられ、願い聴けば惜しみなくお話下さる

のに、そして、ピラト自身、もしやこの方に真理を伺う事ができるの

ではと心で感じていましたのに、「何が『真理なるもの』だと言うの

か」と呟き、その場を離れ、せっかくのチャンスを逃してしまったのでした。

 

 このピラト、背を向けてしまった後は堕ち行くばかり。その最初は

姑息な手段に拠って切り抜けようとした事でした。

 彼の言葉に「私は、あの人には罪は認めません」とありますように

イエスさまが全くもって無罪であって、ましてや死刑なんて「もって

の外」だと明確に分かっていました。

 であれば、ピラトが成すべき事は明らかでした。すなわち、だれが

何と言おうとイエスさまが無罪である事を宣言し、イエスさまの身柄

を強固に保護する事であった分けでした。

 ところが、イエスさまを無罪としながらも、彼は「過越しの祭りに

私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになって

います。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王(イエスさま)

を釈放することにしましょうか」という提案をいたしました。これは

姑息な手段以外、何ものでもありません。

 

そのように、ここにおいても不正が“平然と”行なわれてしまっていた

分けでした。

 

❏戻って、もう一度、『祭司長・長老たち、そして、律法学者たち』 

 バラバは、「強盗であった」とありますが、或る本に拠れば、今風

ですと『テロリスト」。すなわち、ローマ帝国に反逆をし、テロ活動

を行なっていた集団の一員であった分けでした。

 ですから、このバラバは、ローマ帝国の敵であり、祭司長・長老たち

律法学者たちにとりましても厄介な邪魔者でした。それで、いくらなん

でも、そのバラバの釈放を彼らが願うはずもないと、ピラトは考えたの

でありました。

 ところが、その意に反して、何と彼ら、バラバの釈放を要求いたしま

した。これは、彼らが事実上、バラバが属するテロ集団を擁護する立場

を取った事を意味します。それは本来、彼らの信条に反していました。

しかし、そんな事お構いなしに、正義も、へったくれもなく、ただただ

ナザレのイエスを十字架刑に追いやって、抹殺しようと押し通した分け

でした。

 

そのように、あまりにも酷い不正が“平然と”行なわれる中で、目を転じ

ますと、イエスさまはどうでありましたでしょうか?

❏イエスさま、ただひたすら罪人たちの、そのような反抗を忍ばれま

した

 イエスさまはご自分のために、いっさい弁明をなさいませんでした。

そればかりか、人の道、正義に訴えて、ご自分の名誉を正当に守ろうともされませんでした。

 イエスさま、ただひたすら、“平然と”不正を行なう、罪人たちの反抗

を忍び続けられたのでございました。

 これは見方を変えると、イエスさまは、十字架へと“まっしぐら”で

あられた事の表われでありました。イエスさまにとって、その方向へ

と進むのを止める事は簡単でした。ですが、そうはなさずに罪人たち

の仕打ちのままに身を任せられたのでございました。

 

❏不正が“平然と”行なわれる中で、イエスさまは「ピラトに対して、

素晴らしい告白をもって証しされました」

 この「素晴らしい告白をもっての証し」とは何でしょうか? それ

は、ピラトを真実に愛し、彼の救いを願う、そのお姿、その“おことば”

であります。

 このピラトに対するイエスさまの立ち振る舞いは、私たちの模範で

ございます。すなわち、善をもって、悪に立ち向かう事。相手がどう

であれ、軽蔑や見下すのではなく、あるいは、取り入ろうとし、卑屈

になるのでもなく、イエスさまのお心、イエスさまの愛をもって接し、

その人の救いを願いながら、言葉をかけ、福音をお伝えして、最善を

尽くす分けです。

 それが出来ますのは、私たちが聖霊さまに満たされて、聖霊さまに

よって歩み、聖霊さまの導きに従ってこそであります。

 

❏不正が“平然と”行なわれる中で、イエスさまは「御自身が身代わりと

なられる心備えをされました」

 バラバの釈放を人々が要求した事は、あまりにもひどい不正でした

が、イエスさまは、それに対しても一切声を上げる事をなさいません

でした。そして、ご自分と“引き代え”にバラバが無罪放免、死の滅び

から救われる事を「良し」とされました。

 これは何を物語っていますでしょうか? あの十字架でイエスさま

がまさに成し遂げようとされていた身代わりの死の予表でした。

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(Ⅰ

ペテロ2:24)

 この「自分から」という事が示していますように、人々の不正が

“平然と”行なわれる中、イエスさまは、可愛そうな犠牲者であられた

のではない。いやむしろ、父なる神さまの御心を行ない徹す、能動的

な、主体的な行動者であられた分けでした。

 

 この御方、イエス・キリストさまの、私たちのための身代わりの死

に、新ためて感謝いたしましょう!

 

 

 

 

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