· 

2018/3/25

『ヨハネが“殊の外”伝えたかったイエスさまの十字架』

               ヨハネの福音書19章17~30節

 

 マタイやマルコやルカの福音書が記され、30年ほどが過ぎてから、

ヨハネの福音書は記されました。

 そのヨハネの福音書を見ますと、他の福音書には無い数多くの独自の

記録があり、イエスさまの十字架に関する記事に関しても同様です。

 その内容を詳細に読み取りますと、ヨハネが“殊の外”伝えたかった

事柄が浮かび上がって来るのでございます。

 

❏その一つが、十字架は『イエスさまの自らの自発的な意志であった』

という事です

 17節を見ますと、そこには、イエスさまが「ご自分で」十字架を

負い、処刑場であった「ゴルゴタ」に向かい、「出て行かれた」とあり

ます。

 さらには30節には、イエスさまがご自分の「霊をお渡しになった」

とあります。ルカの福音書に拠ると、この時、イエスさまは「父よ。

わが霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれたとの事であります。

 これは何を示唆していますでしょうか? それは、イエスさまは、

肉体の限界から死に“追いやられた”のではなくて、自らの自発的な意志

に因って死に至った。言い換えますと、イエスさまは、明確なご意志の現われとして、ご自分のいのちを“ささげられた”分けでした。

 

 確かにイエスさま、こうおっしゃいました。「だれも、わたしから

いのちを取るのではない。私が自分から命を捨てるのだ」と。

 皆さん。イエスさまの、この『自発的なご意志』としての十字架の死

は何と有り難い事でありましょうか!

 そうであればこそ、イエスさまの身代わりの死は、父なる神さまに

とりまして、無限の価値を有し、であればこそ、私たちを救う力である

分けです。

 

❏もう一つ、ヨハネが“殊の外”伝えたかった事柄は『「ユダヤ人の王」

としてのイエスさまの十字架の死』であります

 イエスさまを罪に定めて、死に追いやろうとしたユダヤ人たちと、

イエスさまや、ピラトとの遣り取り、ピラトとイエスさまとの問答で、

しばしば論点となったのは、どんな事でしたか? それは、イエスさま

が「ユダヤ人の王、云々」という事でした。

 さらに、19節や22節にありますように、十字架に掲げた罪状書き

で再び問題になりましたのが、やはり「ユダヤ人の王」でした。

 そのように、ヨハネが記した中には殊の外、イエスさまが「ユダヤ人

の王」であられる事が強調されていると言えましょう。これは何ゆえで

しょうか?

 

 一つには、それこそ、イエスさまが『約束のメシヤ』であられる事の

証拠であるゆえでした。この「ユダヤ人の王」という称号は、いわゆる

「おらが国の王」ではなくて、聖書の預言に拠りますと「全世界の王と

なられるメシヤ・救い主」という事であるのです。

 もう一つには、ユダヤ人たちの不信仰、不従順を際立たせるためで

ありました。自分たちが待ち望んだ自分たちの王、その御方であられる

のに、その御方を不遜にも拒絶し、死に追いやった、その的外れ、その

邪悪さ!

 もう一つには、未だ救われずにいる人たち、特に同胞ユダヤ人たちを

信仰に招くためでした。60年が経っても、未だ信じずにいる。あなた

方が拒んでいる方こそ、あなたがたのユダヤ人の王、メシヤ、救い主で

あられる。自分たちの過ちを認めて、イエスさまを救い主として信じよと。

 

❏もう一つ、ヨハネが“殊の外”伝えたかった事柄は『成就や完了として

のイエスさまの十字架の死』でございます

 23節と24節には、十字架の下でローマの兵士たちが、イエスさま

の上着や下着を分け合った事実が詳細に記されていますが、ヨハネは、

それが詩篇22篇18節の預言の“みことば”の成就であると解説いたし

ました。

 そして、28節にも『聖書の成就』という事が語られていまして、

その28節は、このようにも翻訳する事ができます。

「この後、イエスは全てが完了したと得心された。すなわち、『聖書が

成就した』と。そして『私は渇く』と言われた」。

 ここで、ヨハネが特に伝えたかった事は、2つの事、一つは、聖書の

実現成就としての十字架、もう一つは、イエスさまが体験された究極の

苦しみ、“渇き”でありました。

 この渇き、十字架につけられた人たちが味わう、一番酷い苦しみ。人

を狂わせ、絶命に至らせる苦痛でありました。イエスさま、その渇きを

も耐え忍ばれました。誰のためにでしょうか? 私たちのためにであり

ました。

 

 さらに30節。ヨハネはそこに、イエスさまが発した“殊の外”重要な

“おことば”を書き留めました。「完了した!」

 これは完了時制でありまして、イエスさまが、永遠の価値を有する

御わざを、完全完璧に成し遂げた事を証しする勝利宣言であります。

 そして、この「完了した」とは、『全て完全に支払済みとなった』

という意味も持ちます。すなわち、膨大な数の罪のゆえに、私たちが

払うべきであった“刑罰”という賠償の全てを、イエスさまが肩代わり

して下さった分けであります。

 

 何ゆえ私たち、ただ信じるだけで救われるでしょうか? 何ゆえに、

底知れず罪深い私たちが罪赦され、しかも「あなたは義人だ。聖徒だ」

との宣言を戴き、受けるはずもない永遠のいのちを賜わり、そして、

忌み嫌われ、御怒りを受けるべき私たちが、神の子どもとして愛されて

いるのでしょうか?

 それは、ひとえにイエスさまが身代わりとなられ、罪の刑罰を受け、

私たちが支払うべき総てを肩代わりし、総てを「支払い済み」として

下さったがゆえでございます。何と有り難い事でしょうか!

 

 皆さん。この「完了した」という“おことば”に、私たちの尽きない

感謝があります。私たちの溢れる喜びと賛美の泉は、実にここにあるの

です。ハレルヤ!

 

❏さて、もう一つ、ヨハネが“殊の外”伝えたかったのは『十字架の極限

の苦しみの最中、イエスさまが示された優しさ』でございます

 26節と27節にありますように、十字架の苦しみの中、イエスさま

は、母として想像し難い痛みの中にあったマリヤのために、ご自分に

代わる息子として、ヨハネにマリヤのお世話を託されました。

 皆さん。このイエスさまの優しさは、私たちのためにも注がれるので

あります。すなわち、イエスさま、私たちの苦しみや心の痛みを知り、

思い遣って下さり、お心を痛め、必ずや助けを、癒しとなる事をお与え

下さるのでございます。

須賀川バプテスト教会

〒962-0836

福島県須賀川市並木町267-13

sukagawachapelhouse

@yahoo.co.jp

℡0248-73-4670