詩篇の学び

序 説

 

 詩篇は私たちの良き友である。私たちが御国に入るその日まで、詩篇は、私たちと共に歩き、共に喜び、泣いてくれる。人生の難しい問題に直面する時、詩篇は私たちと共に考え、そして、私たちの祈りを支えてくれる。人知れず罪に悩む時、私たちの弁護者であるキリストに導いてくれるのである。賛美したいと思う時に、竪琴を弾き、私たちをリードしてくれるのも詩篇である。

 この詩篇には神の民の喜びと悲しみ、勝利と敗北、信頼と迷い、期待と落胆が詠われている。詩篇の記者たちは苦しみ、時にさ迷うが、遂には神に捕らえられ、すべてを神に委ねて、栄光を神に帰し、ハレルヤを叫ぶのである。

 詩篇は1~41篇、42~72篇、73~89篇、90~106篇、107~150篇の五巻から成り立っているが、そのすべてが「ハレルヤ」で終わっている事に注目しよう。

 私たちは、この詩篇から、様々な霊的祝福を受ける事ができる。詩篇は、信仰者の神に対する信頼を高め、彼を励ますためにある。この目的に従って、詩篇には正しい者と悪者との対比が数多く見られる。それは、正しい者が、神ご自身の素晴しさと自分たちの祝福された未来を見、悪者の末路を知って、彼の繁栄を妬む事なく、義の道を歩むように促すためである。それゆえ、ローマ15:4にあるみことばを心に留めつつ、この宝の山である詩篇を掘り下げていきたいと思う。あなたには『信仰』というサーチライトと『探究心』というスコップの用意があるだろうか。

 

詩篇 第一篇

『神と共に歩む人の幸い』 

 

  この第1篇は「詩篇」と名づけられた書の始まりとして、まさ

ふさわしい詩歌です。というのは、この第1篇には、詩篇全体

のテーマの一つが端的に歌われているからです。この1篇に題名

を付けますと『神と共に歩む人の幸い』となりますが、詩篇全体

のテーマの一つが、それであるのです。

 この『神と共に歩む人の幸い』について、第1篇においては、

三つの観点から歌われています。

 その一つは1節に歌われているように「神と共に歩む人は、悪

と袂を分かつ」という事です。

 もう一つは、2節に歌われているように「神と共に歩む人は、

みことばに密着する」という事です。

 三つめは、3~6節に歌われているように、“神と共に歩む人

は、今の祝福と結末の幸いを得る”という事です。

 

 以上の事を踏まえながら、では、神と共に歩む人は、どのよう

であるのでしょうか? 

第一に“神と共に歩む人は、悪と袂を分かつ”のです。1節

 まずは冒頭の「幸い」という言葉に注目しましょう。この言葉

の元々の意味を、ある聖書学者は『真直ぐに歩む』と考えますが、

私は、顔を上げ、目を輝かせて、喜びと感謝の賛美を歌いなが

大手を振って歩く人の姿を想像します。

  では、その幸いな、“神と共に歩む人”は、どのようであるで

しょうか?

 まず詩篇の記者は“悪と袂を分かつ”と歌いました。この「悪」

と言うのは、一つには、「悪者のはかりごと」です。“神と共に

歩む人”「悪者のはかりごとに歩まない」のです。すなわち、

神を認めず、自分の思いのままに生きる「悪者」の

引きずり込まれる事がないと言う分けです。

 

 この「はかりごと」の漢字は、とても興味深く思います。それ

「言べん」「甘い」と樹木の「木」と書きます。あのエデン

の園における悪魔の誘惑を暗示しているようにも思います。すな

わち、魅力的なを指しながら甘い言葉で誘われても、神と共に

歩む人は、それに袂を分かつのです。

 

 もう一つ、この「悪」と言うのは「罪人の道」です。“神と共

 に歩む人”「罪人の道に立たない」のです。逆を言うと、神の

御心と言うを射て歩むという分けです。この「罪人」とは、

の御心の道から外れてしまっている人の事です。私たちは神と共

に歩むのであって、何よりも神の御心にこそ自分を合わせて人生

設計をするのです。

 

 もう一つ“神と共に歩む人”が、袂を分かつ悪とは「あける

者の座」であります。この「あざける者」と言いますのは、真の

神を信じる人の信仰と生き方を小馬鹿にして、上げ足を取ろうと

する人を意味します。そして、「あざける者の座に着かない」

言うのは、たとえあざけりを受けても『それに怯まない。あくま

でも自分の信仰、生き方を貫こうとする』、そして、加えて『愛

をもって真理を語る』という事です。

 これは言い換えますと、新約聖書のみことばにあるように「善

もって悪に打ち勝つ」という事です。議論でもありませんし、

ただ単に、「私はクリスチャンとして、そうする。そうしない」

と主張するだけでもありません。真実な愛と善意、親切な心で、

あざけりに立ち向かうのです。

 

❒第二に、“神と共に歩む人”は、『みことばに密着する』のです

2節

 この「主の教え」は、もちろん、聖書のみことばです。それを

「喜びとする」とは、みことばを愛して、みことばに『しっかり

くっつく』という事です。「大好きな物をしっかりと握りしめ

て、離さない」という分けです。

 「口ずさむ」は、『思い巡らす』と言い換える事が出来ます。

すなわち、神と共に歩む人『昼も夜も、一日中、繰り返して、

 みことばを思い起こして、その教えを熟考し、みことばに従い、

歩もうとする』のです。

 それは纏めて言えば、“みことばに密着する”という分けです。

ですから、“神と共に歩む”とは、言い換えると、この“みことば

に密着して、日々を生きる”という事です。

 

*まず、そこには『聖書は神のことばである』という信仰と尊

があります

 すなわち、「この聖書をとおして、神は私に語り、私を教え、

を導かれる」と信じる分けです。ですから、私たちは、他の本

を読むように、この聖書を読む事は出来ません。敬虔な心と尊重

の思いで、これに向かうのです。

 

*そして、この“みことばに密着する”という中には、『みことば

は私の愛するものです』という親愛があります

 聖書は、私たちを愛して下さった神のみことばです。私たちを

救うために身代わりとなり死なれたイエスさまの生涯と、私たち

に語られたイエスさまご自身のお言葉が記された書であります。

これをとおして、聖霊なる神さまは私たちに愛を語り、私たちに

励ましと慰め、導きをお与え下さるのです。だからこそ、私たち

は、このみことばを愛して、これに親しみ、これに聞こうとする

分けです。

 

*そして、さらに、この“みことばに密着する”という中には、

『みことばに従い歩む』という信頼と従順があります

 皆さん。「神と共に歩む」と言うのは、このみことばに対する

信頼と従順があってこそ、私たちに、リアルに実現するのです。

神、キリストが、本当に身近に感じるようになるのです。


第三に“神と共に歩む人”は、『今の祝福と結末の幸いを得る

のです。3~6節

 まず3節に「水路のそばに植わった木」とあったように、“神

と共に歩む人”には、確かな繁栄が約束されています。ただ繁栄

と言いましても、経済的繁栄がどうこうと言うのではありません。

確かにそれが伴う場合もありますが、この繁栄は霊的な祝福、特

に、私たちの人格に係わる繁栄です。


 私たちが神と共に歩むのであれば、水路の傍の、最良の場所

植えられた木ように「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」

のです。すなわち、実がなるまでには長い忍耐の時を経なければ

ならないとしても、その試練の中守られ、ついには神の御心の時

に実を結ぶようになるのです。皆さん。「時が来ると」そうなる

と言う分けです。今がどうであれ・・・。

  さらに、3節に「その人は、何をしても栄える」とあります。

の「栄える」と言うのは『突き抜ける』という意味で、「良き

事は全て、見事に完結する」と言う分けです。皆さん。そこまで

保証されているのです。なぜでしょう。それは私たちがひたすら

に神さまの御心を行なう事を求めているならば、神さまはそんな

私たちを可愛く思って、後押しして下さるからです。

 

 6節に「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる」と

ありますが、この「知っておられる」、「知る」とは、『一体と

なる』という意味です。つまり、神さまはご自分と共に歩もうと

する人と一体となって歩んで下さる、文字通り、苦楽を共にして

下さるという分けです。神さまは、とこしえまでも私たちと共に

おられ、私たちと親しくされ、私たちの歩みを支え、全ての事を

益として下さり、恵みをもって報いて下さるのです。これは、

と共に歩む人の究極の幸いを約束する、本当に素晴らしい約束の

みことばです。

 

 最後に、この事を付け加えたいと思います。この詩篇、第一篇

は、二度、「その人」とあります。2~3節 

 これは、あなたに対して神さまご自身が、このように招いておら

れると、ぜひ、捉えて戴きたいと思います。「わたしに来なさい。

わたしはあなたに、ぜひ、こういう人になってほしい。この“その

人”の所に、あなたの名前が入る事ができるような人になってもら

いたい」と! この神さまの招きに応え、と共に歩むの幸い

の内を歩もうではありませんか!

 

詩篇 第二篇

『主権は、主イエスさまにある!』

 

 この第二篇のテーマは、12節の「御子に口づけせよ」に表わ

されています。この「御子」とは、神の御子、イエスさまです。

そして、その御子に「口づけせよ」とは、イエスさまを「王の王、

主の主」と認めて、礼拝し、忠誠を誓いなさいという事です。

 

 ですから、この詩篇は、それが実現する千年ほど前に歌われた

イエスさまに関する預言のみことばであり、そして、イエスさま

にこそ主権がある事を認めて、礼拝を捧げ、忠誠を尽くして日々

を生きよと命じるみことばである分けです。

 

 この第二篇は、三つに分ける事ができます。まず、その一つが

1~3節で、この箇所には『神の御子に対する諸国民、王たちの

反逆』が歌われています。そして、4~9節では『人々が退けた

神の御子を、神ご自身がご自分の王としてお立てになった事』

歌われています。そして、10~12節では『神の御子の主権を

認めて、礼拝を捧げ、忠誠を尽くせ』という事が歌われているの

です。

 

❒まずは1~3節ですが、ここにある事は、使徒4:25~28

に拠ると、イエスさまの受難十字架の死において、そのとおりに

成就しました

 *この「騒ぎ立つ」とは『反感を抱き、抹殺しようとする暴挙

を意味します。まさに、人々はイエスさまにそのようにいたしま

した。

「つぶやく」は『密かに策略を練る』という事で、イエスさま

を十字架の刑にするために、確かに、人々は謀議を重ね、陰湿な

方法によって、イエスさまを死に追いやろうとしたのでした。

*結局、人々の振る舞いは「立ち構える」「逆らう」という言葉

が示しているように、神と神の御子に対する反逆、反抗であった

分けでした。要するに彼らは、3節にあったように、イエスさま

の主権を認めて、イエスさまにひれ伏す事を嫌い、イエスさまを

十字架に追いやったのでした。

 

❒ところが、4~9節です。人々が抹殺した勝ち誇る中、父なる

神さまはイエスさまをご自分の王として新ためてお立てになった

のでした

 *パウロは、説教の中で、この詩篇の7節を引用して、その言葉

が、イエスさまの復活において成就したと宣言しました。確かに、

復活は、まさに、「新しい生まれ」ではないでしょうか!

*実際、復活によりイエスさまは「新しい人類」として生まれた

のです。そして、新ためて、決定的な事として、イエスさまが神

の御子、王の王、主の主であられる事が宣言されたのでした。

*8節は、まだ文字どおりには実現してはいません。しかし、時

が来ると必ずここにあるとおりに実現するのです。

 

❒このような分けで、今や全ての人たちに、10~12節にある

ように命じられています。すなわち、

*10節にあるように、イエスさまが神の御子、王の王、主の主

であられる事を「悟り」、自分はイエスさまのしもべとして従う

べき者だという意味で「慎む」べきであるのです。

*「恐れつつ主に仕えよ」「おののきつつ喜べ」「御子に口づけ

せよ」。すなわち、イエスさまの主権を認め、毎日の生活の中で、

イエスさまを王とした生活をするのです。何よりもイエスさまを

最優先にして、その御心のためにこそ生きるのです。身代わりと

なって死なれたイエスさまの愛に感謝して、イエスさまのために

喜んで生きよう」とするのです。

 

*そのような生き方は、別の見方で言えば、12節の最後にある

「主に身を避ける」という事です。というのは、一人の人を王と

仰ぎ、その主権の下、その支配の下に自分の身を置くという事は、

その王の保護の下に自分を置く事でもあるからです。確かに、王

は、自分の下にある者を保護する責任があるのです。

 同じように、私たちも主イエスさまを「私の王」として慕い、

愛して、仕えてこそ、私たちは、その王であられるイエスさまの

保護を実体験できるのです。イエスさまの主権を認める事と、主

に身を避ける事とは、表裏一体であるのです。

  私たちが、どれほど実際にリアルに神さまを信じる事の幸いを

味わう事ができるか、それは私たちが、どれほど実際にリアルに

イエスさまを自分の王として認めて、イエスさまに従い生きるか

によるのです。幸いなのは、イエスさまの主権を認め、そのよう

にして、すべて、主に身を避ける人であるのです。

 

詩篇 第三篇と四篇

『“ストレス”に強くなるために』

 

 私たちは生きている限り、ストレスから逃れる事は出来ません。

何らかのストレスを受けるのです。そして、同じようなストレス

でも、それを大きく感じる人もいますし小さく感じる人もいます。

あるいは、同じ人であっても、その時の体と心の状態によっては、

小さな事でも、大きなストレスに感じる場合があるのです。

 

 或るカウンセラーは、ストレスを大きく受け留めてしまいがち

な心の状態をストレス・マインドと呼び、そのような心の状態に

陥った時、どのような発想をしやすいか、五つの特徴を具体的に

挙げていますが、

①「私なんか・・・」という発想、すなわち、自己評価の低さです。

②「あの人が、状況が・・・」という発想で、言い換えれば、他人

や環境への不満です。

③「前は、・・・だった」「どうせ・・・だろう」という発想で、過去

を懐かしみ、未来に希望が持てない、という分けです。

④「あの時に・・・していれば」という発想で、後悔ばかりして、

敗北者の気持ちからなかなか抜け出せない、という分けです。

⑤「~でなくちゃ」とか、「~しなければ」という発想で、言い

換えれば、こだわりが強くある、という分けです。

 

 このような発想の中で、ストレス・マインドが強くなりますと、

私たちは冷静さを失い、小さい事にもイライラし、落ち込んでし

まい、やけっぱちになったり、自分を追い込み、ストレスに押し

潰されてしまいます。そうならないために私たちは、ストレス・

マインドを助長させる発想から抜け出る必要があります。そして、

ストレス自体に対しも強くありたいものです。

 

 さて、ダビデが作詩である三篇と四篇は同じ状況の中で歌われ

ました。三篇の表題にあるように、王位を乗っ取ろうとした息子

アブシャロムから逃れ、荒野をさ迷い、命の危険に晒される中で、

この二つの詩篇をダビデは歌ったのでありました。

 普通に考えますと、そのような状況の中でしたから、ダビデは、

先ほど言ったような発想を次から次へと思い描いて、ストレス・

マインドを強くし、身も心もボロボロになってもおかしくありま

せんでした。息子に裏切られ、刃向われ、命を狙われるという事

ですから。後悔しきりでしょう。恨み、つらみもあると思います。

国民の多くがダビデの敵となり、軍勢がすぐにも追い迫り、彼を

襲おうとしていたのでした。過去を懐かしみ、自分の将来に何の

希望も持てなくても、自暴自棄になっても不思議ではない情況で

あったのでした。

 ところがです。この二つの詩篇に歌われているように、圧倒的

なストレスにも係らず、ダビデはそれに潰される事がありません

でした。それどころか、心の「ゆとり」を失わないで、安らかに

眠りにつく事すら出来たのでした。4:1に「私の苦しみの時に、

ゆとりが与えられた」とありますが、この「苦しみ」とは『息が

詰まるほど、窮屈に押し込まれる』という意味です。そんな圧迫

の中でダビデにはゆとりが与えられた、すなわち、心は『広々と

していた』というのです。しかも、3:5や4:8にあるように、

すぐに眠りにつき、安眠熟睡が出来て、次の日の朝には心地良い

目覚めを迎えたと言うのでありました。

 

 何と羨ましい事でしょうか! 私たち、ちょっとした事でも、

気になって、寝つけない事が多いのではないでしょうか。これは、

ダビデだけの特別な事でしょうか。確かに、すぐに、簡単には、

ダビデのようになれないかもしれません。けれども、次の秘訣を

心得るなら、私たちは、確実にダビデの心の“ゆとり”に近づく事

が出来るのです。なぜ、ダビデはストレスに対して強くある事が

出来たでしょうか?

 

第一にどんな状況にあっても変わらず、「主よ」とダビデが

呼び求める事をしたからでありました

 ダビデの周りの人の多くは変わってしまいました。多くの人達

がダビデを裏切って、アブシャロムの側につきました。それは、

ダビデにとって寂しく辛い事であったと思います。

 しかし、その寂しさ辛さをダビデは乗り越える事が出来ました。

なぜでしょうか? 人の心が変わったとしても、いつまでも変わら

ないものがあったからでした。それは、ダビデと神さまとの関係

です。周りが変っても、ダビデの信じた神さまは、彼の主であり、

彼を愛し、彼の祈りに耳を傾ける方でした。ダビデはその神さま

に「主よ」と呼びかけ、自分のあるがままを述べ、心を注ぎ出す

事が出来たのでした。

 同じように私たちも、周りが変わってもいつまでも変わらない

ものがあります。それは私たちと神さまとの関係です。ですから、

どんな状況にあっても、私たちは、神さまを「天のお父さま」と

お呼びして、自分のあるがままを述べて、心を注ぎ出して、助け

を求める事が出来るのです。それは何と幸いな事でしょうか!

 

第二に、なぜ、ダビデはストレスに対して強くある事が出来た

でしょうか? 彼が神さまの保護を確信したからでありました

 ダビデを取り巻く状況は増々悪くなるばかりでした。しかし、

彼はその絶望的な状況を認めつつも、神さまの保護を確信するが

ゆえに、状況に対して、「しかし」と言う事が出来ました。この

「しかし」は、信仰者ならではの「しかし」であります。

 状況は最悪でも、なぜ、「しかし」でしょうか? 「あなたは

私の回りを囲む盾」であるからです。そして、神さまが、「私の

栄光」であるから、すなわち、ダビデは自分が失ってしまった

としての栄光を、御心であれば神さまは回復して下さると信じた

分けでした。そして、なぜ、「しかし」であるか、それは神さま

が「私のかしらを高く上げてくださる方」であるから、すなわち、

神さまはダビデのすべてを赦し、喜びと希望を呼び戻して下さる

御方であると、ダビデは信じた分けでした。

ですから、彼は、3:4~6にあるように、断言をし、安眠する

事が出来たのでありました。

 私たちも同じです。神さまは常に私たちの味方であるのです。

この事だけでも、この事をさえ私たちが信じ続けているならば、

私たちはどのようなストレスにも強くある事が出来るでしょう。

たとえ何かの失敗や罪でストレスに被る事になっても!

 

 この「神が私の味方である」という事は、言い換えると、3節

にあるように、神さまが私たちを「特別に扱われる」という事で

す。この「特別に扱われる」とは、『線を引き、囲いを設けて、

他と特別する』という意味です。皆さん。これをよくよく考えて

見ましょう。神さまが私たちの周りに線を引いて、囲いを設けて、

他と区別をし、私たちを特別扱いして下さると言う分けです。何

と嬉しくも、期待と希望がふくらむ事でしょうか!

 

第三に、なぜ、ダビデはストレスに対して強くある事が出来た

でしょうか? 彼が謙虚に自分の人生を省み、悔い改め、神さま

の御心がなる事を求めたからでありました。4:1

 ここに「私の義なる神」とありますが、これは「私を弁護して

下さる正義の審判者」という意味があります。すなわち、ダビデ

には『自分とアブシャロムの間を神さまが正しく審判し、裁いて

下さる』という確信があった分けでした。

 そして、ダビデがそのような確信に至るまでには、謙虚に自分

の人生を省み、悔い改めるという事が必ず行なわれたはずであり

ます。それがあってこそ、彼は何の良心の咎めも無く、「私の義

なる神」、すなわち、「私とアブシャロムの間を裁く審判者よ」

と呼びかける事が出来た分けでした。

 ところで、ダビデは「私の祈りを聞いて下さい」と祈りました

が、その彼の一番の願いは、「敵をやっつけて下さい」でも「王

としての地位に戻して下さい」でもなかったのではないでしょうか。「神さまの御心のとおりになりますように。私が、神さまの

御旨に適った事が出来ますように」と祈ったのではないかと思う

のです。

 

 そのように、何か問題にぶつかり、ストレスを被るような事態

になった時に、私たちは静まり、自分の人生を省みる必要がある

のではないでしょうか。そして、悔い改めるべき事を悔い改める

のです。そして、その問題や、ストレスの中で、神さまが自分に

求めておられる事は何かを尋ねるのです。そして、全てを正しく

裁かれる、正義の神さまに物事を委ねながら、「神さまの御心が

なるように。私が、神さまの御旨に適った事が出来ますように」

と祈りましょう。そうすれば、私たちはダビデと同じくストレス

に強くなる事が出来るに違いないでしょう。

 

第四に、なぜ、ダビデはストレスに対して強くある事が出来た

でしょうか? 彼の心が神さまご自身に、その恵みに満たされ、

満足を得ていたからでありました。4:6~8

 ここにあるように、ダビデの周りに居た人たちは、今ある境遇

と、将来に対する不安から「だれか、われわれに良い目を見せて

くれないものか」と不平をぶちまけていました。ところが、その

ような中でダビデが求めたのは、神さまご自身とその恵みであり

ました。

 彼にとっては、神さまが共に居て下されば、何処に居ようと、

どんな大変な中にあっても、将来にどんな事が待ち受けようと

も、神さまが共に居て下されば、それで、それだけで満足、充分

であったのでした。なぜなら、ダビデの喜びは、神さまご自身に

あり、神さまから来る喜びは何にも勝り、彼にとって素晴らしい

ものであったからです。

 そのように、ダビデは神ご自身とその恵みに心満たされ、満足

していたからこそ、あのような逆境に中で、そのストレスに対し

強くある事が出来たのでした。8節に、「安らか」という言葉が

ありましたが、これは5節の「拠り頼め」と訳された言葉と同じ

で、すなわち、赤ちゃんが親に胸に抱かれて、安らかであるよう

にダビデは神さまの御むねに自分を任せきり、その懐の中で満足

し、安ろい、あのストレスの中、眠る事が出来た分けでした。

 

 そのように、私たちも、心が渇き切るような時、物事がうまく

いかず、焦りを覚えたり、心し萎えたりします時に、ストレスに

潰されて、すべてを投げ出したいような時に、神さまの御もとに

その御むねに飛び込んで行きましょう。神さまご自身に私の慰め、

癒しを戴きましょう。確かに、神さまに行けば、キリストさまに

行けば、イエスさまご自身の、あのみことばのごとくに、私たち

は『休み』を得、満足を得、生きる力を得るのであります。


詩篇 第五篇

『信仰者の切実な祈り』

  さて、この第五篇は、その前の三篇と四篇と同じ状況の中で、

すなわち、息子アブシャロムの反乱の時に歌われた詩篇であろう

と言われています。

 あの大変な状況の中でダビデは何を思い、何を願ったでしょう

か。

 

まず、ダビデは、本当に切実に祈りました。1~3節

 この1節に「私の言うことを耳に入れてください」とあります

が、これは「耳を立ててください」と言い換える事も出来ます。

また、同じ1節には「私のうめきを聞き取ってください」とあり

ますが、これは、『耳をそばだてる。頭を傾けて、耳を近づけて

聞く』という意味です。「耳を立てる」よりもさらに踏み込んだ

姿です。

 そして、2節にあるように、ダビデはさらに踏み込んで、ただ

聞くだけではなくて、「私の叫びの声を“心に留めて下さい”」

祈りました。

 

 この祈りがエスカレートする様子は、「私の言うこと」「私の

うめき」「私の叫びの声」というように、ダビデの祈りの段々と

テンションが上がる、その事からもうかがえます。最初のうちは

「私の言う事」とあるように、ダビデは、ごく普通に祈っていま

した。ところが、段々と、「私のうめき」とあるように、彼は

の奥深くを打ち明けて、切々と祈るようになりました。そして、

さらに「私の叫びの声」とあるように、彼は大きな声を上げて、

叫んで祈ったと言うのです。本当に切実な祈りを、ダビデはした

分けです。

 

 この彼の切実さは、その祈る時間祈りに対する答えを待つ、

ダビデの態度からもうかがい知る事が出来ます。いつ、ダビデは

祈ったでしょうか。3節にあるように彼は「朝明けに」、朝一番

に、真っ先に祈りました。

 そして、同じ3節に、「朝明けに、私はあなたのために備えを

し、見張りをいたします」とありますが、これは『やるべき事

全てやり終えて、後はその結果を見守る』という事、すなわち、

ダビデは祈りに対する答えを百%の信頼をもって待ち望んだ分け

でした。

 あなたはこのように切実に祈った事があるでしょうか。そして、

「見張りをする」と言うように、祈って、その祈りの答えを百%

の信頼をもって待ち望む事をするでしょうか。

 

❒ダビデは、いったい何を祈ったのでしょうか?

 *第一にダビデは『神さまのご臨在とその“お心”を感じる事が

出来るほどの、神さまとの深くて親しい交わり』でした。7節

 この時、ダビデは何処に居たでしょうか? ここで「聖なる

宮」と言われている、“神の幕屋”から遠く離れた場所でした。

この神の幕屋は、当時、エルサレムにあって、神さまのご臨在と

その“お心”を感じる場所でした。ダビデは、アブシャロムの反乱

のゆえにそこから遠く離れてはいましたが、その方向に向かい、

平伏しました。それは、なぜでしょうか? 少しでも深く親しく

神さまとの交わって、神さまのご臨在とその“お心”を感じたいと

思ったからでした。

 私たちも同じように、神さまのご臨在とそのお心を感じる事が

出来るほどに神さまとの深く親しい交わりを求めて、切実に祈り

たいものです。私たちの祈りには、祈りが向かう相手がいます。

そして、その御方のご臨在とそのお心を感じるほどに、神さまと

交わるのが本当の祈り、私たちの祈りの真髄です。

 

第二にダビデは、自分の進むべき道を示して下さり、かつ、

その道を歩む事が出来るように』と祈りました。8節

 ダビデは、彼を罠にかけて滅ぼそうとする者から守られるため

に、神さまが導いて下さるよう祈りました。そして、自分の進む

べき道を「真っ直ぐにして下さい」と祈ったのでした。この祈り

には三つの注目すべき点があります。

  その一つは、「あなたの義によって」とあるように、ダビデ

が神の義を拠り所としてその導きを求めている点です。これは、

言い換えると、神さまの正しきお取り扱いを願うという事です。

このように願うのは勇気がいるのではないでしょうか。 

 

 もう一つはダビデが「あなたの道を」と願っている点です。

これ、すなわち、「私の願いではなく、神さまの御心のままに」

という事です。

 そして、もう一つの注目はダビデが「私の前に、あなたの道

まっすぐにして下さい」と願っている点です。この「まっすぐ

に」という言葉には『平らに』という意味もあります。これは、

ダビデが安易な歩みを求めた分けではありません。たとえ困難な

道であったとしても、そこをあたかも“まっすぐで平ら”であるか

のように歩めるように、力強く立派に歩めるようにと願った分け

でした。

 そのように私たちは、神さまの御心に適った正しき道を力強く

立派に歩めるようにと祈りたいものです。ただ単に自分の願いや

成功、幸せ、安全を求めるだけではないのです。神さまの正しき

お取り扱いを願いつつ、神さまの御心を求め、そして、その御心

のうちを自分が力強く立派に、もう一つ加えると、喜んで歩める

ようにと祈り求めるのです。

 

第三にダビデは、神の御名があがめられ、神が賛美される事

を祈りました。11~12節

 この12節に「正しい者」とありますが、これはいわゆる清廉

潔白、罪がない事を意味するのではありません。それが「正しい

者」であれば、そう呼ばれる資格のある人は、聖書が言うように

だれひとりいないのです。ここで言う「正しい者」は、11節に

「あなたに身を避ける者」とある、ひたすらに神さまに信頼する

を指すのです。それは聖書に「義人は信仰によって生きる」と

書いてあるとおりです。そして、同じ11節に「御名を愛する者」

とありますように、神さまを真実な思いで愛する人こそがここで

言う「正しい者」であるのです。

 ですからダビデは、その「正しい人」が「みな喜び、とこしえ

までも喜び歌いますように。・・・あなたを(神さまを)誇ります

ように」と祈った分けでした。これは、すなわち、彼が神さまの

御名があがめられ、神さまが賛美される事を切実に祈ったという

事です。

 彼は、どのようにして、その「正しい者」たちが神さまの御名

をあがめ、神さまを賛美するようにと願いましたでしょうか? 

彼らを神さまが「かばってくださ」る事で、そして、正しい者を

「祝福し、大盾で囲むように、愛で囲まれる」事によって、一言

で言うなら、神の守りによってです。

 

 これは執り成しの祈りですが、同様に私たちも、共に覚えて、

執り成しの祈りをいたしましょう。

 


詩篇 第六篇

『神との交わりこそを!』

 

❒苦悩するダビデ

 さて、この第六篇もダビデが歌った詩篇ですが、それを歌った当時、彼は、大変な苦しみの中にありました。その“苦しみ”というのは・・・

*まず、第一に、何らかの“病気”でした。2節

 ここに「私をいやしてください」とあるように、ダビデは何らかの病気のために大変な苦しみの中にありました。彼はひどく「衰えて」、全く力を失ってしまいました。ダビデの身体は、「私の骨は恐れおののいています」とあるように、ガクガクと震え、あるいは、膠着してしまったのでした。彼は、そのあまりの苦しさに、5節にあるように、死を意識するほどでした。

 

第二に、ダビデの苦しみというのは、人々の“うわさ”“思惑”でした。7節

 病に苦しむダビデを見て、確かに同情する人もいたと思います。しかし、ヒソヒソと“うわさ”を語る人たちもいたのでした。「あのように、王が病気に苦しむのは、神の裁きではないか? もはや望みはないのでは?」と。そして、ダビデに敵対する人たちは「これ、幸いに」と、いろんな“思惑”を押し進め、ダビデを増々追い込もうとしたのでした。

 そのためにダビデは、どうであったでしょうか? 彼もやっぱり人の子です。まして、病の床にありました。彼の身体だけではなく、心も弱り果てました。彼の目は、7節にあるように「いらだちで衰え」、これは直訳しますと「悲しみで目が落ち込んでしまっている」という事です。

 そして、ダビデは彼の敵のために「弱まりました」とありますが、これは直訳すれば「老け込んでしまった」という事です。すなわち、疲れ果ててしまって、若々しさが全く失われた分けです。

 

 この病気と人間関係におけるストレス、この二つがダビデを苦しめていた分けでした。それはとても深刻でした。潰れてしまっても、おかしくない。しかし、この二つ以上にダビデを苦しめていた事がありました。

 

*それが三つめで“神さまとの交わりが途絶えていた事”でした。3~4節

 この「主よ。いつまでですか。」というのは、『主よ。振り返って、こちらを見てください』と訳す事も出来ます。「帰って来て下さい。主よ。」というのは、まさに神さまとの交わりが回復される事を願う祈りです。

 ダビデは彼の犯した罪のために、その罪は恐らくあの姦淫の罪ですが、その罪のために神さまとの交わりは途絶えてしまいました。そして、あまりに、彼の犯した罪の重大さのゆえに、神さまは、暫くの間、ダビデを、あたかも“捨て置かれる”ようにされたのでした。

 そんな中、ダビデは喜びを失い、霊的な力をなくしてしまい、ひどい病気になり、人々の“そしり”を受けるようになったのでした。これは決して日本で言われるような「“ばち”が当たった」と言う事ではありません。あるいは、当時、人々が“うわさ”をし、ダビデに敵対する者たちが“ほくそえんだ”ように神の裁きでもないのです。それは、神さまの“懲らしめ”でした。

 

❒徹底した悔い改めに導かれるダビデ

 この「神の懲らしめ」とは、神の裁きや、“ばち”が当たる事と全く違う事です。「“ばち”が当たる」というのは論外ですが、「神の裁き」とは、罪に対して、義なる神が下す処罰です。一方「神の懲らしめ」と言うのは、神が、教育的な配慮から、愛をもって、ご自分の子どもに下す、何らかの“痛み”であるのです。

 そして、その懲らしめの目的は、神がご自分の子どもを徹底した悔い改めに導く事であり、ご自分の“聖さ”に与らせようとするという事です。ダビデの場合は、その罪の重大さゆえに徹底した悔い改めに導こうとされて、神さまは彼に懲らしめをお与えになられたのでした。

 そして、神さまの、いわゆる“親心”に応えたのがこの詩篇であり、そこに歌われている徹底した悔い改めでした。ダビデは本当に徹底した悔い改めをいたしました。その“深み”のある悔い改めには、彼がどれほどに神さまが聖い御方であってどれほどに自分の罪が汚れたものであるかという事を高く深く認識していた事と、彼の人格の高潔さが現われています。その意味でも、ダビデは私たちの模範です。

 

❒神との交わりこそを切望したダビデ

 そして、もう一つ、私たちが彼を模範とすべき事があります。それは、いったい何を求めて、そのように徹底した悔い改めをダビデはしたかという点です。

 

 彼はただ単に病気や敵からの救いを求めて、悔い改めた分けではありませんでした。確かにその事もありましたが、ダビデが何よりも一番に願った事は、神さまとの交わりが回復される事でした。3~6節

 ダビデにとって一番辛かった事、惨めに思ったのは、神さまとの交わりが途絶えてしまった事という事でした。ですから、何としてでも、もう一度、神さまに彼は“こちらを向いて”、そして、“自分のところ”に帰って来て欲しかった分けでした。交わりの回復です。そのためにダビデは、6節にあるように「私は、私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流した」のでした。

 この神さまとの交わりの回復を求めてのダビデの必死さ、徹底した悔い改めは何を物語っているでしょうか? それは、コインの裏表のように、一方では、神さまとの交わりが途絶える事の重大さであり、そして、もう一方では、神さまとの交わりがどんなに素晴らしいものかという事です。それまでにダビデは、神さまとの交わりがどんなに素晴らしいかを、よくよく体験していたのです。彼にはその交わりの、そして、そこから湧き出る喜び、楽しさの“良き思い出”がありました。ですから、それを失った時の惨めさ、空しさを嫌と言うほど味わったのでした。だからこそ、「ああ、あの幸いな交わりに戻りたい」と切望した分けでした。

 あなたはどうでしょう? このダビデが切望したように、神さまとの交わりを切望しているでしょうか? あなたは神さまとの交わりの素晴しさを、その喜び、その楽しみを、日々、体験しているでしょうか?

 確かに言える事は、神さまとの交わりが深まれば深まるほどに、私たちの心の喜び、楽しみは深まり、満ち溢れるようになるのです。私は確信をします。いろんな“幸福”と言えるものが世の中にはあります。しかし、その中で、人にはあまり知られず、最高、最良の幸福は何かと言うと、神さまとの交わりであるのです。

 ですから、私たちは、何よりも、神さまとの交わりを大切に思いましょう。交わりを重ね、交わりを深めるならば、それは、何にも代え難い貴重な時間、宝の時間と思うようになるでしょう。そして、もし、その神さまとの交わりが途絶えるならば、大変な損失だと考えるようになると思います。

 

 あなたは神さまとの幸いな交わりの中にあるでしょうか? もし何らかの罪のゆえに神さまとの交わりが損なわれてしまっているのに、あるいは、忙しさにかまけて、神さまとの交わりが途絶えているにも係わらず、その事に無感覚で無頓着でいるとすれば、それは本当に深刻な問題です。

 神さまとの交わりを妨げる、何か罪に見覚えがあるとすれば、そして、霊的な喜びや感謝や平安が自分にないのであれば、罪を悔い改めましょう! すべき事であるのに、それをしない事は罪だと聖書にあります。みことばを読まない事、捧げるべきを捧げない事、それは罪であり、神さまとの交わりを損なうのです。もし罪のゆえに交わりが損なわれているのに、そして、罪が示されているのに、その罪を悔い改めようとしないのであれば、神さまは私たちを愛するがゆえに、私たちを何らかの形でお責めになられます。そして、それでも悔い改めないのであれば、しかるべき懲らしめを神さまはお与えになられるのです。しかし、そこに至る前に私たちは正直になり、素直になり、罪を悔い改める事が神さまの賢い子どものする事です。

 私たちは罪を軽く見てはなりません。それは非常に深刻な問題です。私たちはもはや罪のゆえに裁かれて、地獄へ行く事はありません。しかし、人生最高最良の幸福、神さまとの交わりを失わせるのです。ですから、もし罪が示されるのであれば、即座に悔い改めましょう。今、ここでも! ダビデのように心の底から!

私たちは切望し、実際に体験しましょう。人生最高最良の幸福、神さまとの交わりをです。

 

須賀川バプテスト教会

〒962-0836

福島県須賀川市並木町267-13

sukagawachapelhouse

@yahoo.co.jp

℡0248-73-4670